2017年3月12日日曜日

武士道ー日本人としてのアイデンティティの目覚め

1945年から52年にかけての、アメリカ占領時代に作られた日本の憲法については、それが日本を「普通の国家」と認めるのを拒否したアメリカの押し付けなのか、あるいは原爆を体験した唯一の国としての日本の立場を反映した、貴重な戦争放棄を宣言するものなのか、意見が分かれるところである。

日本国憲法に関する物議は、1890年代初頭より続いてきた「日本の魂」とは何たるか、についての論争が、またしても現れたもの、と考えられるだろう。日本が、意識的にヨーロッパ国家の憲法をまねた最初の近代的な憲法を公布したのは1889年であった。「武士道」というあまり知られていない言葉が、日本人の特徴を理解する上での鍵として研究論文で最初に使われたのもこの頃だった。この最初の憲法が日本の近代化を宣言したので、武士道に関する理論も、日本が「文明化」した西洋に相応するものと決め込んだ。武士道はヨーロッパの騎士道と英国の「紳士」の慣例に匹敵するものとして発表された。

武士道という言葉は、江戸時代(1603年から1868年)以前には使われていなかったと批評家たちは指摘する。江戸時代以前は、儒教が主で、武士階級に広く当てはまる道徳的慣例は存在しなかった。

1900年に初めて英語で出版された新渡戸稲造の「武士道ー日本の魂」は、この言葉を広めるのに重要な役割を果たした。20世紀を通して、この本は100回以上増刷され、数多くの言語に翻訳された。前アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトは、この本にいたく感銘し、60冊も買って、友達や家族に配ったという。

欧米にとって、「武士道」は、日本に対しての、全く新しい、啓示的な洞察を与えるものだった。この本が出版されるまでは、西洋の日本に関する概念は、中国のそれと同一視されがちだった。たとえば、ギルバート・アンド・サリバンの「ミカド」(1885年)はそのいい例だと言えよう。その中では、日本は、中国語のように聞こえる名前を持った、気取ってふるまう廷臣ばかりがいる女々しい国として表現されていた。新渡戸の本は、それを一変して、日本を、他にはない武士の文化を持つ、男性的で、ダイナミックであるとともに詩的な国として確立したのだった。

最初に出版されてから5年後の1905年までには、「武士道」は大人気を博し、マラーティ語、ドイツ語、ポーランド語にも翻訳された(ポーランド語版は、その扇動的な内容を恐れて、ロシア政府が検閲したが)。フランス語版とノルウェー語版もまもなく出版され、中国語版は、「熟慮中」となっていた。しかし、オレグ・ベネシュ氏が「Inventing the Way of the Samurai」の中で指摘したように、「武士道」はあっという間に国際的なベストセラーにはなったが、日本国内ではそのように熱狂的に受け入れられたわけではなかった。なぜなら、日本国内では、1894年から5年にかけての日清戦争での勝利の後、武士道についての諸々の他の理論が唱えられるようになったからだった。国家主義を主張する井上哲二郎は、新渡戸を糾弾し、天皇を崇拝する、別の形の武士道を確立した。そしてこの概念こそが、最終的に日本に根付くこととなるのである。

新渡戸の本は1908年に日本語に翻訳されたが、彼の武士道の概念が広く読まれ、影響力を持つようになったのは、新渡戸の肖像が五千円札に印刷された1985年以降であった。


1862年に侍の家に生まれた新渡戸は、19世紀後半における偉大なる「ルネサンス的教養人」であった。彼は、著者であるとともに、5つの博士号を持ち、日本語、英語、そしてドイツ語に堪能で、外交官であり、農学の研究者であり、政治家、教育者、そして経済学者でもあった。彼はアメリカとドイツに留学もし、キリスト教徒にもなった。

今日新渡戸の「武士道」を読むと、その文体は古式で華美であると同時に、あの時代の人種差別の慣習から免れていないように見える。しかしながら、この薄い本が、どうして最初に出版された時、あのようなセンセーションを引き起こしたかは、火を見るよりも明らかだ。37歳の日本人がこのように完璧な英語を書くとは、まさに博学の賜物である。

新渡戸は、まず、武士道の概念が、いかに儒教と神道の教え、特に天皇を敬う事、国を愛すること、そして祖先を崇拝すること、といった教えを吸収したか、を説明する(「この宗教、―あるいはこの宗教の表すところの日本人の思い、というべきか-は、すっかり武士道に取り込まれている」)。新渡戸は、武士道の基本は、主君に敬意を払い、忠誠を誓うことにあると説く。中国では、儒教の教えは親に対する服従を人間の根本の義務であると説いたが、日本では主君の方が優先されたわけだ。

近代の江戸時代の研究はすべて、武士階級が発展途上の市場経済をうまく処理できなかったことを指摘している。しかし新渡戸の本を読むと、武士階級が経済音痴だったのは、むしろ彼らの美徳であったかのように思われる。新渡戸は言う、侍にとっては「勘定台とそろばんは忌み嫌われ」そして、「武士階級が商業を営めないようにしたのは、全く称賛すべき社会政策で、そのおかげで富が権力者に集中するのを防げたのだ」と。

新渡戸は、この本の中で、武士道に関する2つの相反する概念を打ち出そうとしている。つまり、武士道を、日本の武道の慣例がいかに日本独自のものであるかと言う事を示すものとして売り込む一方で、それが同時に、世界に通用する理想であると唱えているのだ。これはおそらく、19世紀の帝国主義の世界に遅ればせに加わった日本としては、西洋の真似をしているだけの2級の国だと思われたくなかったからだろう。日本にとっては、日本が独自の非常に洗練された道徳観を持ち、西洋と同等に競争し、挑戦することができると言う事を見せることが重要だったのだ。「武士道」は、暗にこの骨組みを提供したのだった。この本を読んで、世界の秩序が変わっていくだろうことを感じ取った者もいただろう。

20世紀は、19世紀とはかけ離れたものになっていくのだった。新渡戸は、キリスト教とは違う唯一の道徳観として武士道を打ち出した。しかも資本主義の正統性に挑戦しうるものとして。新渡戸は言う、ローマ時代の禁欲主義と同じように、武士道は「社会体制としては終わったが、美徳としては今も生きている。」と。

新渡戸の「武士道」が世界中で大いに受け入れられたと言う事は、日本人にとって誇りとなったが、日露戦争(1904年から5年)における勝利とあいまって、日本で20世紀初頭に受け入れられた武士道の解釈は、皮肉にも新渡戸のものよりもはるかに排外主義的で、人種的偏見に満ちたものなのであった。

「武士道ー日本の魂」は、新渡戸が古き良き時代に対する思いを掘りおこして書いたのかもしれなかったが、1930年代に移って行くにつれ、日本は侍の慣習を、狂信的で自己破壊的なものとして解釈し始めることになるのである。(続く)